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子どもは自然そのものだ。
自然は朗らか、自然は残酷、自然は美しく、自然は癒やし、破壊し、そして絶妙に調和する。
自然はユニークで、自然はユーモラス、自然は太陽と水が必要で、自然は野放図に成長しようとし、自然はただその命を全うせんとする。
自然相手に、ちっぽけなニンゲンのコントロールなどきくはずがない。
自然はコントロールされるのが大嫌い。コンクリートを敷き詰めたって、突き破って出てくる生命力、それが自然。
それを忘れ、ついコントロールしようと試みる。
が、それは大波に飲まれているのに、必死で抗っているような、無力さと、苦しみ…。
残されるのは、ただただ徒労のみ…。
母になると、子をひたすら守ろうとするものだ。
時に人はそれを母性愛という。
でも本当に「愛する」というのは、その相手を「守る」ことではなく、その相手に「自由をあたえる」ことだ、という。
これは本当に難しい。でも私は真実だと思う。
でもそうだとしたら、動き出した自然たちにとって、母性愛など単に母親たちの自己満足に過ぎず、ただ鬱陶しいに過ぎないのかもしれない。
「木の上に立って見る」、それが親。
昔の人はエラい…
母親なんて勝手なもので、子のためなら自分の命など全く惜しくないくせに、自分の予想や期待とおりにならないだけで、気分を害し、憎くく思ったりするもんだ。
自然農の師匠・川口由一さんは、自然農の実践にとって大切なことは、自然にたいし「添い、応じ、従い、任せる」ことだと言う。
子育ても同じじゃないの?とダンナはんは言う。
そーんなこと仰いますが、ウンコのついたお尻でふかせてもらえずウロウロされてみてよ!
それに添い、応じ、従い、任せるって!?
と反発してみても、結局そうするしかないのだ、相手は自然だから。
自然に教わることはあっても、
自然に教えることは何一つなく、
自然をジャッジすることも、
ましてや征服することは決してできない。
野菜も群れて育ちたいものあれば、最初から一人でかなりのスペースを欲しがるものあり、つかまりたい、絡まりたいのもあれば、一人スクと立ちたいのもあ り、下に伸びたいものあれば上に伸びたいの、横に這いたいのあり、次々実をつけるのあれば、一生に一つしか実をつけないのもある。
野菜ですら?この豊かな個性。子供はこの全ての個性をあわせもち、時々でいろんな側面をかいま見せたりもする。
私たちにできるのは、ただその個性を認め、添い、応じ、従い、任せるしかない。
ニンジンにオレンジ色であることを責め、キュウリに絡みつくことを怒り、ゴーヤが苦いことを変えようとする人はいない。
しかし頭じゃわかっちゃいても、毎日毎日イライラ、ガミガミ。
小さな存在に圧倒されて、感情を征服されてばかり…
。
ふと握った手のあまりの小ささに、ハッと我に返り、心臓を握りつぶされる思い。
その繰り返し。
咲いたばかりのチューリップを根こそぎ花首おられても怒るまい。
自然にとっちゃタンポポもチューリップも同じ花。
ベトベトの手で拭いたばかりのガラス戸をベタベタ触られても怒るまい。このトキしか見れない、期間限定のアート作品だ。
掃除機をかけた直後に、虫や葉っぱを家の中で散らかしても怒るまい。
自然にとっちゃ内も外も境界はない。
甘いものばかり食べたがっても怒るまい。アリもハチもカブトムシもホタルも、苦いものより甘いものが好きなんだ。
寝たばかりの妹を起こしちゃっても怒るまい。
怒ったところで後の祭り…
「オニはそと~!」と言ってぬいぐるみを投げられても怒るまい。
確かにそこに、鬼がいた…
怒ったところで何一つ良くなることはなく、冷静になれば、怒るほどのことはそうそうない。
と、頭じゃわかっちゃいても、つい怒りまくる小さな自分。冷静になり、ごめんね、と言うと、ごめんねと返す子。
小さな子同士のケンカと一緒。
でもやっぱり人の子、シツケは必要!?
じゃあ動物を見てみよう、コトバで子供は躾られない。親の生き方、姿を見て真似るのみ。
坂本フジエ婆さんはそれを「感化」といい、真弓定夫先生は「親が成長する姿を見て、子供は勝手に成長する」と言う。
けっきょく、自分が成長するしかないのだ。全て自分次第。
あぁ無情…!?
かわいい可愛い子供たち、母を毎日育ててくれて、ありがとう。
どうしようもない、怒っても、母はお前さんたちのめちゃくちゃな自然さを、どうしようもなく愛してる。
そしてきっと、あなたたちも母を許し、愛してくれて、ありがとう。
自然相手に、ちっぽけなニンゲンのコントロールなどきくはずがない。
自然はコントロールされるのが大嫌い。コンクリートを敷き詰めたって、突き破って出てくる生命力、それが自然。
それを忘れ、ついコントロールしようと試みる。
が、それは大波に飲まれているのに、必死で抗っているような、無力さと、苦しみ…。
残されるのは、ただただ徒労のみ…。
母になると、子をひたすら守ろうとするものだ。
時に人はそれを母性愛という。
でも本当に「愛する」というのは、その相手を「守る」ことではなく、その相手に「自由をあたえる」ことだ、という。
これは本当に難しい。でも私は真実だと思う。
でもそうだとしたら、動き出した自然たちにとって、母性愛など単に母親たちの自己満足に過ぎず、ただ鬱陶しいに過ぎないのかもしれない。
「木の上に立って見る」、それが親。
昔の人はエラい…
母親なんて勝手なもので、子のためなら自分の命など全く惜しくないくせに、自分の予想や期待とおりにならないだけで、気分を害し、憎くく思ったりするもんだ。
自然農の師匠・川口由一さんは、自然農の実践にとって大切なことは、自然にたいし「添い、応じ、従い、任せる」ことだと言う。
子育ても同じじゃないの?とダンナはんは言う。
そーんなこと仰いますが、ウンコのついたお尻でふかせてもらえずウロウロされてみてよ!
それに添い、応じ、従い、任せるって!?
と反発してみても、結局そうするしかないのだ、相手は自然だから。
自然に教わることはあっても、
自然に教えることは何一つなく、
自然をジャッジすることも、
ましてや征服することは決してできない。
野菜も群れて育ちたいものあれば、最初から一人でかなりのスペースを欲しがるものあり、つかまりたい、絡まりたいのもあれば、一人スクと立ちたいのもあ り、下に伸びたいものあれば上に伸びたいの、横に這いたいのあり、次々実をつけるのあれば、一生に一つしか実をつけないのもある。
野菜ですら?この豊かな個性。子供はこの全ての個性をあわせもち、時々でいろんな側面をかいま見せたりもする。
私たちにできるのは、ただその個性を認め、添い、応じ、従い、任せるしかない。
ニンジンにオレンジ色であることを責め、キュウリに絡みつくことを怒り、ゴーヤが苦いことを変えようとする人はいない。
しかし頭じゃわかっちゃいても、毎日毎日イライラ、ガミガミ。
小さな存在に圧倒されて、感情を征服されてばかり…
。
ふと握った手のあまりの小ささに、ハッと我に返り、心臓を握りつぶされる思い。
その繰り返し。
咲いたばかりのチューリップを根こそぎ花首おられても怒るまい。
自然にとっちゃタンポポもチューリップも同じ花。
ベトベトの手で拭いたばかりのガラス戸をベタベタ触られても怒るまい。このトキしか見れない、期間限定のアート作品だ。
掃除機をかけた直後に、虫や葉っぱを家の中で散らかしても怒るまい。
自然にとっちゃ内も外も境界はない。
甘いものばかり食べたがっても怒るまい。アリもハチもカブトムシもホタルも、苦いものより甘いものが好きなんだ。
寝たばかりの妹を起こしちゃっても怒るまい。
怒ったところで後の祭り…
「オニはそと~!」と言ってぬいぐるみを投げられても怒るまい。
確かにそこに、鬼がいた…
怒ったところで何一つ良くなることはなく、冷静になれば、怒るほどのことはそうそうない。
と、頭じゃわかっちゃいても、つい怒りまくる小さな自分。冷静になり、ごめんね、と言うと、ごめんねと返す子。
小さな子同士のケンカと一緒。
でもやっぱり人の子、シツケは必要!?
じゃあ動物を見てみよう、コトバで子供は躾られない。親の生き方、姿を見て真似るのみ。
坂本フジエ婆さんはそれを「感化」といい、真弓定夫先生は「親が成長する姿を見て、子供は勝手に成長する」と言う。
けっきょく、自分が成長するしかないのだ。全て自分次第。
あぁ無情…!?
かわいい可愛い子供たち、母を毎日育ててくれて、ありがとう。
どうしようもない、怒っても、母はお前さんたちのめちゃくちゃな自然さを、どうしようもなく愛してる。
そしてきっと、あなたたちも母を許し、愛してくれて、ありがとう。
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